またまた、読書家の母から面白い小説を紹介してもらいました。
朝井まかてさんの『雲上雲下』です。
物語の前半は、とにかく謎が多いです。
なにせ、主人公は草!!
「わしは、枯れることのできぬ草である。見目は樹木のごとくで丈は二丈を超え、根本もおそらく一抱えはあるだろう。幾千もの葉は常世の緑を保ちながら花を咲かせず、種を吐かず、実もつけぬ」
「鋸のごとき葉で誰にも手折られぬようになっているわしの葉は、先だけはなぜか耳たぶのように膨らんで丸くなっている」
異形の草が主人公という謎設定。
そこへ、憎たらしくも愛くるしい子狐が迷い込み、寝物語をせがむ。
主人公の草は、なぜか昔話を語るのが得意で、次々と語って聞かせる・・・
昔話の数々は、とにかく語り口が軽妙で、臨場感にあふれています。
昔どこかで聞いた話よりも、ずっと面白く感じられるはず。
「なぜ多くのページを割いて、昔話を展開するのか・・・?
どうやって本筋に絡めていくのか・・・?」
正直、中盤までちょっと不安でした。
しかし、龍が登場する昔話の山場から、
物語は怒涛の展開になだれ込みます。
主人公の草の前に、次々と昔話の登場人物たちが現れ、
過去と現在が、架空と現実が交錯するクライマックスは圧巻!!
ここら辺は、もう胸打つ言葉の応酬で、息もつけなくなってしまいます。
ネタバレにならない程度に、お気に入りの文章をチラ見せしますね( *´艸`)
「お前さんは我知らず、甦らせたのよ。物語の者らの心を。酷さと弱さ、身勝手のほどを。いかんともしがたい、いたたまれぬほどの運命(さだめ)を」
「人の心の狡さや恐ろしさを注意深く伝えながら、励ますのだ。生まれたこの世を生きて生きて、生き尽くせと。」
「物語る」ことの本質とは?
過去の知恵から学び、より良い未来を紡いでいくこと。
それはすなわち、過去を置き去りにせず、過去と共に未来へ向かうこと。
神羅万象、膨大な時間と命を、糾える縄のように引き連れて。
自らも巨大な縄に編み込まれながら、次の世代へと望みを託して。
そんな著者のメッセージを受け取ったように感じました。
「皆、かかわり過ぎぬように、かかわってくれたのだろう。これは、お前の物語ゆえ」
「己で見つけ、己の足で歩かねば、違う物語になる」
「さあ、取り戻されるがよい。あなた自身の物語を。さすればここから解き放たれる」
先に述べた物語の本質が、マクロの視点だとするならば、こちらはミクロの視点。
紡がれた一つ一つの物語。
一人一人の物語。
その主人公は、他の誰でもない、自分である。
自分の責任で、自分の取捨選択で、紡いでいかなければ成立しない物語。
すなわち、人生そのもの。
一部でありながら、全てでもある、我が命。
そしてそれは、周りの物語の、多くの主人公たちによって支えられている。
一人じゃないと、ものすごく心強く感じてしまいました。
物語のクライマックスからラストシーンに向けては、
多くの謎が解き明かされ、主人公の草の正体も明かにされます。
なぜ「草」でなければならなかったのかも・・・はっきりとは言及されていませんが、
匂わせがあります( *´艸`)
この辺、読まれた方と答え合わせがしたいところです。
引用部分からも伝わるかもしれませんが、
この作品の語り口は、とにかくリズムがよくて軽妙。
上手い、としか言いようがありません。
鎌倉時代に琵琶法師によって語られた『平家物語』を彷彿させます。
朗々と歌い上げる語り口。
熟語の硬い響きで、歯切れよくグイグイとひっぱり、
個性的で 臨場感あふれるオノマトペで活き活きと描く。
音の心地よさで前のめりに読み進めてしまいます。
『雲上雲下』―――
懐かしい昔話のゆりかごに揺られ。
突如として穿たれた ブラックホールに吸い込まれ、
ホワイトホールより放出される、痛快さを味わい。
物語と現実のあわいから抜け出し、各々の人生を 自らの脚で歩き始める勇気をもらえる。
いろんな味が楽しめるドロップスのような長編小説。
蒸し暑い日の巣ごもりのお供に、いかがでしょう?